本願寺新報9/1号 みんなの法話②
葬儀に際し、初めてお会いする故人は既に棺の中におられます。初めて会うご遺族からは、法名をおつけするために故人のエピソードを聞かせていただきます。
出身地域が親しみのある場所であったりすると、葬儀の取り持つご縁の不思議を思わずにはいられません。そして本願寺派の僧侶として、何を一番にお伝えするべきかを考える時、正信偈の一節が浮かびます。
「凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」(注釈版聖典203頁)
「凡夫も聖者も、五逆のものも法謗のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる」(現代語版『教行信証』145頁)
川の流れは古くから人生にたとえられてきましたが、その長さは生きた時間でしょうか。
その人の人生をその人が生き抜いたのだから、他の誰かが勝手な物差しで優劣を決めるなどおこがましいとわかっているはずなのに、私たちは平均寿命などの物差しに振り回されて、勝手に悲しみを増しているのかもしれません。
川の広さは人生の豊かさでしょうか。経済的な豊かさ、交友関係の範囲。
自分が選んだ末の人生であるにもかかわらず、隣の芝生の青さが気になって、感じなくてもいい不平や不満を感じているのかもしれません。
川のあり様は生き様でしょうか。清らかにありたいと願いながらも、思いのままに生きられない人生、心ならずも傷つけたり傷つけられたり、憎んだり妬んだり、気付いたら取り返しがつかないほどに濁ってしまった自らの姿にため息をつくのでしょうか。
しかし、流れ込んでくる川の水を一切分け隔てすることなく、自らの中に摂め取り、ついには自らと同じ塩味一味に調えていく海のはたらきは、まるで阿弥陀様のようだ、と示されているのです。
この正信偈の一節があればこそ、私たちが浄土に生まれることはお慈悲のはたらきによるのだから、何の心配も疑いもありません、とお伝えすることができます。
旧知でもそうでなくても、地方でも都市部でも、私たちの都合を問題としない心強いお慈悲のはたらきの中、安心して今日も法務に励んでいます。