大乗(2015年1月号) みほとけとともに掲載分②
本願寺出版社さまから刊行されている「大乗」に寄稿させていただきました。
ふぅ、と皆でため息をついて顔を見合わせました。
「凍蝶でしたね。」
冬の季語として用いられる凍蝶は成虫の姿で越冬する種類の蝶を指しているので、サナギの姿で越冬するクロアゲハにはあてはまらないかもしれません。
しかし今まさにその命を終えようとしている姿に私たちは緊張を強いられて、色々な事を考えさせられたのです。
その身がぼろぼろになり果てるまで、どれほどの時間を飛び続けたのだろうか。
その命を次の世に残すつがいとは出会うことができたのだろうか。
どこでどのように、その命を終えてゆくのだろうか。
季語としての「凍蝶」が用いられた俳句にはしみじみと感じ入らされるものが多くありますが、現代歌人の加藤光樹さんの一句が忘れ難く記憶に刻まれています。
「凍蝶の 舞いおさめしは 弥陀の肩」
この一句にどのようなこころが詠み込まれているのかは、目にした一人一人がそのこころに問うてみればよかろうと思うのですが、お念仏をよろこばせていただく日々の中、「弥陀」の単語には敏感にならざるを得ません。
命の終わる、まさしく臨終のその時、よりどころとしたのは弥陀一仏であった。
長い、あるいは短いその生涯に、頼りとするべき場所はすでに用意されていた。
「極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、
煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくして
つねにわれを照らしたまふといへり。」
(顕浄土真実教行証文類 行文類二 正信偈)
良いことも悪いこともたっぷりとし遂げて、もはやどんな償いもかなわない土壇場とも呼ぶべき場面において、どれほどの地位も名誉も役に立たず、財産も金銭も言うに及ばず、いかなる絆も断ち切られ、目も見えず耳も聞こえず、手を握り励ます家族の温もりも感じられなくなり、痛みすら消え果てて、それでも私を一人で捨て置かないのが阿弥陀様のお慈悲のはたらきであったと聞かせていただきます。
頭で称えるのかこころで称えるのか、意識があるのか無意識なのか、生きているのか死んでいるのか。もう何も分からないその時でさえ、私のはからいをはるかに超えて「なまんだぶつ」と到り届いてくださるかたじけなさを知らせてくれた、一羽の凍蝶の姿でした。
「そんなことを考えています。」
「あらぁおっさん、お坊さんみたいねぇ。」
「うん、まぁ坊さんなんですけど。」
このように都市開教の日々を過ごしております。