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法話

いのちの栞①

本願寺新報

平成28(2016)年4月10日号

いのちの栞①

今月のお言葉

「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、

三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)をもすこしづつ好まずして」

(親鸞聖人御消息二 註釈版聖典七三九)

 

近所に本願寺派のお寺がないという方が、隣の市から来寺して下さいました。

数年前101歳の母を亡くし、それをご縁としてお仏壇の前で朝夕のお勤めをするようになったが、正直に言うと母を亡くすまでは仏事に関心があったわけではないとのことでした。

それでも「いつか引き継がなければ」と思いつつ、朝夕のお給仕やお勤めは母に任せ、その後ろ姿を見ていた、とお話してくださいました。

母と同じように朝夕のお勤めを続けてみると、次第に日々の習慣として組み込まれて、所用で家を空ける時は何となく落ち着かない気分になる、と笑っておられました。

 

ただ心配事があって、「母はいつもお浄土に生まれさせていただくことを喜んでいたが、自分はそのような気持ちにはまだならない」

「朝夕のお勤めをしているのも、母のしていたことを自分が引き継がなくてはならない、という義務感が強いように思う」

「いつか母のように、仏さまにならせていただくことを喜ぶ自分になれるのだろうか」という思いをこの頃は感じているそうです。

朝夕のお給仕とお勤めを通して、自らの内面と向き合う大切な時間を過ごしておられるのだ、と聞かせていただきました。

 

今月のお言葉では「釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになった」私たちが、「迷い(無明)・むさぼり(貪欲)・いかり(瞋恚)・おろかさ(愚痴)を少しずつ好まないようになり、阿弥陀仏の薬を常に好むようになって」ゆく様子が明らかにされています。(親鸞聖人御消息【現代語版】参照)

 

このお言葉をいただく時に気を付けたいと思うのは、「すこしづつ」という箇所です。

とどまることなく変化し続ける無常の世を、やはり変化しながら生きていかざるを得ない私たちにとって、「変わる」ということは切り離せない現実です。

しかしその変化は一様のものではなく、コインの表が裏になるような分かり易いものもあれば、長い階段を一段ずつ登ったり降ったりする分かり難いものもあるでしょう。

親鸞聖人のみ跡を慕うように、ご往生されたお母さまの後ろ姿にならう、お勤めと変化の日々をこれからも重ねていただきたいと念じるご縁でした。(了)

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